
(1)首都大 藤村スタジオ最終講評会にゲストクリティークとして参加しました (2)SFCデザイン言語ワークショップ(空間生成)の中間講評会と (3)理科大工学部松川スタジオ外部中間講評会を合同
2009-06-08 09:50:11 | permalink
6月1日(月)は藤村龍至さんのお誘いを受け、彼が設計課題を出した首都大学の最終講評会にゲスト・クリティークとして参加させていただいた。6月6日(土)は、僕が理科大とSFCで担当している設計課題の合同中間講評会に藤村さんをお呼びする。藤村さんとは以前から様々議論を重ねてきたので、ある程度お互いの共通点や相違点を共有していると思っていたのだが、両者が実際に設計した「建築」ではなく、それぞれ出した「課題」に対して講評する側とされる側に入れ替わることで、これまで以上に両者の共通点や相違点が明確に浮かび上がって来た濃密な講評会だった。両講評会で様々なゲストの先生方の意見も刺激的だったのだけど、論点を明確にするためにもここでは主に藤村さんと僕との共通点や相違点に焦点を当てて以下メモランダム。
講評会自体の形式や内容はすでに藤村さんがblogに書かれているのでまずはそちらを参照して頂くのがいいかもしれない。
http://www.round-about.org/2009/06/post_103.html
藤村スタジオは、木造の住宅課題。具体的な家族構成や建ぺい率、容積率なども設定され、単純に延べ床を満たすように解くと木造3階建てにしなければいけないような厳しい条件。しかもその課題の設計プロセスも彼の持論の設計手法である「超線形設計プロセス」を踏襲しなければならない。対して松川スタジオは、卒業設計のように、何故(why)建築をつくるのか、何の(what)建築をつくるのか、何処に(where)つくるのか、誰のために(who)つくるのか、何時(when)つくるのかといった通常前もって与えられる与条件そのものを提案することに比重が置かれた課題。ただしどのように(how)つくるのかだけは僕の持論の設計手法である「進化的設計プロセス」を踏襲しなければならない。
両課題とも設計プロセスがあらかじめ設定されているのが大きな特徴であり共通点である。それは僕も藤村さんも「これまで暗黙のうちに行ってきたの設計プロセスを論理的に捉え直す」べきであるという問題意識があるからだ。学生の提案の中には「ここちよい空間をつくりたいです」とか「とにかくかっこいい建築をつくりたいです」とか「森のような建築をつくりたいです」などといった曖昧模糊としたコンセプトを掲げる案が往々にして見受けられる。そこには、「ここちよい」とか「かっこいい」などの主観的な意味や、「森のような」といった比喩的な意味というのは、あらかじめ建築の側に内在されているものだという前提(信念?)があるはずなのだが、当の本人達はその前提を全く自覚していないことが多い。しかしそのような意味とは、建築側に独立して実在しているのではなく、建築と観測者の相互作用を通して観測者側に立ち上がるものなのではないだろうか。たとえ設計者がかっこいいと思う建築を作ったとしても、他者がそれをかっこいいと思う保証はどこにもない。つまり意味というのは事前的に建築を生成するコンセプトになり得ず、事後的に観察されるべきものだということを最初に徹底的に議論する。こうして両課題とも表層的には生徒の発表の中から上記のような主観を含んだ表現が消えていき、論理的な手続きによって設計が進められることになる。このようにどちらも建築を形式化しようという点は一見同じに見えるのだが、その意図するところは全く逆だと僕は思っている。藤村スタジオは暗黙知を形式知化し、その形式知化された要素だけを用いて統合するのが建築家の役割であると教え、松川スタジオは形式知化された要素を統合する手続きをコンピュータアルゴリズムにまかせてしまって、形式知化できない暗黙知を用いることこそが結局は建築家の役割であると教える。言い換えれば藤村スタジオは建築を形式化することで暗黙知を排除し他者と情報を共有しようとする意図があり、松川スタジオは建築の形式化を推し進めることで、暗黙知の重要性を浮かび上がらせる意図があるように思う。
確かに僕も含めて首都大の先生方が口を揃えたように、藤村スタジオで最終的に提出された案はどれも一定レベルを超えていた。藤村さんの言葉を借りれば新興住宅街に見られるような「希薄」な建築ではなく「濃密」な建築が多かったということだろう。「超線形設計プロセス」では、要求される変数をピックアップする「検索過程」と、変数を比較検討する「比較過程」に分かれるが、藤村スタジオでは、「検索過程」におけるもっとも重要な条件の読み取りは省略され、(1)ボリューム→(2)内部プラン→(3)家具→(4)構造→(5)家具の向き→(6)屋根・開口といった検証すべき要求条件とその順番があらかじめ与えられていた。その後、例えば(3)家具を例にとれば、椅子の高さは400であり、机の高さは700であるとひとつひとつ教えたそうだ。藤村さん自身が自らのことを「予備校の講師」だと表現し、生徒のことを「設計マシン」のような「機械」と見立てる。こうして、ひとりの脱落者もなく多くの生徒があるレベル以上の設計を行うことができるようになる。それはそれで、形骸化した合理主義に対抗するために「批判的工学主義」を掲げる藤村さんにとっても、家具の寸法一つ知らなかった学生にとっても意義のあることだろう。しかし藤村スタジオで最優秀として評価された案は、上記の与えられた要求条件に留まらず、自ら新たに要求条件をピックアップした生徒だったという事実こそ学生諸兄は留意しなければならない。今のところコンテクスト(文脈)を読むことは機械にはできない(フレーム問題)。与えられた条件を「建築らしく」解くだけでは、早晩、批判的工学主義も形骸化した工学主義に陥ってしまうだろう。
一方松川スタジオの中間講評では、ほとんどの案が「設計のイメージ」に留まっていて「建築のイメージ」が獲得できていないとご批判いただいた。まだ中間発表だからということを差し引いてもその指摘自体は当たっている。しかし的を得ていないと思う。なぜなら最初にも書いたが松川スタジオの課題の主題が建築個別の案の善し悪しを競うことではなく、問の立て方そのものを問うことに重点が置かれているからである。藤村さんは椅子の寸法が400で机の高さが700であるべきだと教えるのに対し、僕は人間の行動を観察して、そこから発見した法則性をもとに個別の条件に合わせて椅子や机を生成しなさいと教えるのだ。藤村スタジオは演繹的な建築の修辞を教え、松川スタジオはアブダクティブな仮説をたてることに集中し、さらに演繹的にコンピュータプログラムを用いてありうべき建築の可能性を生成したあと、帰納的にその可能性を検証することを教えるのだ。学習曲線を考えたときに、最初は塾的な藤村スタジオのほうが高い値を示すのに対し、より根源的な基本だけを徹底的に学ぶ松川スタジオの初速度は鈍い。しかし長いスパンで見た時には必ずその曲線は交差するだろう。藤村さんは機械のように建築家を育てようとするが、僕は機械に取って代われないような建築家を育てたい。
さらに提案されている建築の形態があるパターンに分類・収束していることが、アルゴリズミック・デザインの構造的な問題なのではないかというご指摘もいただいた。「進化的設計プロセス」では、実環境を観測して、そこで発見した法則性を用いて建築を生成する。つまり課題で生成された建築形態にあるパターンがあるとすれば、それは観測された現状の建築形態にあるパターンがあるということだ。僕が考えるアルゴリズミック・デザインにおいては、個別の建築形態がキューブだろうがボロノイ的だろうがそこに大きな主眼はない。むしろ、ある変数の組み合わせになったときに、現状の画一的な建築群が生成されて、別のある変数の組み合わせとなったときに、複雑で多様な建築群が生成されるというように、一見全く異なる建築形態をしていたとしても、その背後にはある共通の法則性がありそのアルゴリズムを探るということにこの課題の主眼があるのだ。もちろん奇抜な建築形態を生成するためにアルゴリズミック・デザインを用いるという人もいるので、僕がいうアルゴリズミック・デザインもフォルマリズム的なもんだろうという誤解があるのかもしれない。しかし僕が考えるアルゴリズミック・デザインとは、難波和彦さんが『建築の四層構造』のなかで「関係主義」と定義しているような建築思想であって、従属変数を変えることでどんな建築思想にも適応できるような、より一般的な関数を探ることなのだ。関数で書くと、z=f(x,y)というようにある特定のz主義を志向するというよりは、f(x,y,z)=0という関係主義を志向する。
僕が、超設計設計プロセスは無数にある建築の可能性の中から一つの可能性しか探索していないのではないかと(いつものように)批判すると、藤村さんはそれは重々承知の上で、政治的な合意形成のためにあえて線形じゃなければいけないのだと反論する。さらに僕がコンピュータによってありうべき建築の可能性のログを残せば同じように政治的な合意形成は可能だろうと反論すると、すべての人がコンピュータプログラムを操るのは現実的ではないと批判する。まぁキリがないように見えるが(笑)、要するに藤村さんはあえて線形的に設計を進めることで基本的な建築の理(ことわり)を学習させ、反面教師的にそれを「超」えろというメッセージを伝えたいのだ。私見では「超」線形設計プロセスとはそういう意味だと思う。対して僕は、環境は常に動的なのだから、観察と生成を繰り返すことで、その都度建築の理(ことわり)を発見しようと伝えたいのだ。それを事後的にみると「進化」的設計プロセスなのだ。それは試行錯誤(観測と生成)のスピードと量をどれだけ増やせるかということに尽きる。
まだまだあるが(笑)すでに相当長いのでこの辺でやめておこう。いづれにしても、両方学ぶにこしたことはないので、最初に藤村スタジオを受講してから、大学院の授業あたりで松川スタジオを履修するのがいいのではないかという話にとりあえず落ち着いた(笑)。
両講評会の後、学生と朝まで居酒屋で議論しながらこのような両課題の共通点や相違点が次々と見えてきて、僕自身が非常に刺激的だったし、なにより居酒屋で建築談義する学生の熱気がすごかった。それが一番の収穫なのではないだろうか。いいことも悪いことも含めて本気でぶつかり合える関係を築くこと。synctokyoのころから積み重ねて来たガチンコの議論が今に繋がっているのだ。
首都大の講評会に呼んで頂いた藤村さんをはじめ、首都大関係者の皆様、SFCと理科大の合同中間講評会にゲストクリティークに来て頂いた松田達さん、田中浩也さん、飛び入りで参加してくれた柄沢祐輔さん本当にどうもありがとうございました。そして学生の皆さんに感謝します。後半戦もがんばりましょう。
追記090722
このエントリー内で書かれた理科大とSFCの合同講評会は、東京理科大工学部建築・都市設計 2009松川スタジオ担当の授業の内部で行われたもので、東京理科大工学部建築・都市設計 2009の菊池宏スタジオと行われる正式な合同講評会はまた別途行われます。
